明日香村を訪ねて

欽明天皇陵
 全長約140m、後円部径72m、前方部107mで墳丘は3段築成で周濠を持ち、明日香村では最大の前方後円墳である。「日本書紀」によると欽明天皇は32年4月に亡くなり、9月に檜隈坂合陵(ひのくまさかあいりょう)に埋葬された。天皇の妃の堅塩媛(きたしひめ)を推古20年(612)に合葬している。出土遺物が築造年代と合わず、丸山古墳を欽明陵とする説も有るとか・・・
猿石
 高さ1m程の石造2体ずつ4体が吉備姫王墓を守るように、両横に並んでいた。猿に似ていると言う事で、猿石と呼ばれているらしい。花崗岩に彫られた石造物で、その表情は4体さまざまだ。3体には裏表の両面に顔が有るそうだが、中に入る事が出来ないので、はっきりは分からなかった。
鬼の俎板
 このあたりに住んでいた鬼が霧を出して旅人を騙し、捕らえて俎(まないた)で調理し、雪隠(便所)で排出するという伝説がある石。という説明版が建っていました。鬼の俎板と雪隠はもともと一つの古墳であったが、土がなくなって分離したらしい。俎板と言われているのが、底石で、雪隠が蓋石、他に扉石があったそうだが・・・
鬼の雪隠 
 天武・持統天皇陵の南西、道を隔てて上下にある大きな石造物。ともに石槨式石室の分離したもので。雪隠と言えばお便所だが、見方によっては今の洋式トイレのようにも見えて来るから、不思議だ。
亀石 橘寺から西へ約500mのところ、隣には普通の民家が建っていて、まるで亀がうずくまったかのような巨大な岩石があり、何とも不思議な感じ。いつごろ、何のためにつくられたかわかりませんが、いま西南に向いているこの石が、もし西向きになればこのあたり一帯が海となって沈んでしまうという伝説もあるとか。親切なおじいさんが、私達のツーショット写真を撮ってくれ、色々と説明してくれました。
橘寺
 西暦572年、この寺で、聖徳太子が、生まれた。
西暦1148年5月15日雷火のため五重塔が消失し、、60年後鎌倉時代文治年間三重塔を再建したが、西暦1506年多武峰の兵により焼かれ、全く昔日の面影をなくしてしまい、現在の堂は、元治元年(西暦1864年)多くの人々の力により再建実現したものである。昔は法相宗であったが、江戸中期より、天台宗になり比叡山延暦寺の直末で仏頭山上宮皇院橘寺、別名 菩提寺とも言われている。
黒駒像(聖徳太子愛馬)
 聖徳太子はこの愛馬 黒駒に乗って各地の説法に行ったという。きりっとした凛々しい感じの馬である。
この建物の横に往生院があり、念仏写経研修道場として平成9年に再建され、多目的道場として活用されているそうで、この道場内の天井には、華の天井画が260点奉納されており、たたみに寝転んで見上げる画は華の浄土の様相を呈していて見事であった。

 
二面石
 飛鳥時代の石造物の一つで、太子殿の左横にある。
右善面、左悪面と呼ばれ、
人のこころの持ち方、善悪2相を表したものといわれている
人は誰もが心の中に善と悪を持っているものだ。
お寺に置いている石だから、そういう名を付けたのだろうか
五重塔跡
 本坊の門の前に土壇がある。五重塔跡で中心には大きい珍しい形をした心礎があり、直径約90cm、深さ10cmの柱の入る孔、その円孔の三方に半円形の孔(そえ柱孔)が掘ってあり、現存すれば約38m余りの五重塔が立っていたことになる。
三光石
 聖徳太子は大変深く仏法を信仰し、自ら仏典の講義をし、注釈を加えられたのが、現在も保存されている。西暦606年に天皇の仰せにより勝鬘経を三日間にわたりご講讃になった。その時、大きな蓮の花が庭に1mも降り積もり(蓮華塚)、南の山に千の仏頭が現れ、光明を放ち(仏頭山)、太子の冠から日、月、星 の光を放ったといわれている
聖徳太子が作ったと伝えられている「阿字池」の側にある。

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