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有名な呪い、祟りの話

崇徳天皇の呪い史上最悪の祟り神

日本最大の呪い

日本最大の呪いとして有名な話。

第75代天皇。平安後期の天皇。鳥羽天皇の第一皇子として生まれると5歳にして即位するも鳥羽天皇の意思では無く院生を強いていた白河法皇の意思であったと言われています。崇徳は、鳥羽天皇と皇后待賢門院の第一皇子ではあるが、一説に白河法皇と待賢門院の間に産まれたと言われています。白河法皇没後、鳥羽上皇は崇徳を退位させると2歳の近衛天皇を即位させます。近衛天皇が急死すると後白河天皇を即位させ崇徳を蔑ろにしていたのです。
表舞台を失った崇徳は不運な人生を送ります。

鳥羽上皇没後、崇徳と後白河天皇の間で争いが起こり「保元の乱」が勃発します。武家の台頭にもなった戦いで崇徳は敗れると讃岐、今の香川県に流刑されるのです。

都から遠く離れた流刑の土地で崇徳は、ひたすら京へ戻れることを願い写経を書き溜めていきます。
月日の流れに書き溜まった写経を「せめて写経だけでも京の地へ」と寺に奉納を願い朝廷に送るのです。しかし、後白河は、呪詛を怖がり送り返してしまいましたす。
生きる望みまで断ち切られてしまった崇徳は京の地と朝廷への復讐の念の塊となっていくのです。復讐を誓う念書を海に沈めると髪も爪も切ることなく生きながら天狗になったと言われる程に変貌。日本国の大魔王を称し「この経典の力を持って天皇家を永遠に呪い、民を皇に、皇を民にする」と言葉を残した。そして鬼となり46歳の若さでこの世を去ります。

死しても京へ戻る崇徳の願いは叶わず四国の白峰山に埋葬されました。

埋葬のとき不思議なことが起こります。「天候の急変、掻き曇り、激しい風雨が襲うと突然の雷鳴が轟き、棺からは真っ赤な血が流れ出すと火葬の煙は都に向かってまっすぐにたなびいた」

崇徳は怨念となったのです。

明治、昭和天皇をも恐怖させた崇徳帝の怨念と怨霊は、日本最大の呪いとして今なお語継がれています。