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関東独立に失敗した英雄の呪い、現代でも続く将門の首塚

平将門将門の乱

将門の首塚

9世紀から10世紀に活躍した関東を独立させようとした猛将。当時の朝廷は地方の管理を国司に任せ統治に関与することはなかった。
国司の地方統治は悪政極まりなく民をくるしませ地方は次第に荒れ始めます。治安は乱れ生き地獄のなか悪政に立ち向かう民を代表するかの様に武家が誕生します。桓武天皇の血筋である平氏、清和天皇の血筋でる源氏は武家の代表格となりました。
武家として勢力を拡大する平将門は関東八州の国司を撃破して坂東諸国を制圧すると「新皇」称しするのでした。
「将門の乱」の勃発です。その行動に激怒した朝廷は、将門討伐の勅旨を出すと藤原秀郷・平貞盛・藤原為憲の連合軍の戦いに破れ戦死してしましました。将門の乱はわずか2ヵ月であっけなく幕を閉じたのです。
朝廷に刃向い皇位を僭称する悪人の末路として将門は日本の歴史において長きに渡り史上最大の悪人とされました。

将門は悪政に苦しむ民の無念と苦しみを飲み干し怨霊と化すのです。

現代でも誰も手のつけられない怨念と怨霊、将門の首塚。戦いに敗れ晒された将門の首が体を求めて東国へと怪光を放って飛んで行った。しかし、首は大手町の御手洗池に落下したと言われています。※落ちた場所には諸説あり

江戸時代に逆賊の汚名を解かれたことで首塚が同地に建立されました。

東京駅の近く、丸ビル等のオフィスビルがそびえる大手町の一角。近代文明のビル群に相応しくないその一角は将門の怒りを沈めさせる供養塔として「将門の首塚」は今日まで大切に祭られています。この地は古来、将門の怨念に悩まされてきた場所で、近年になっても「将門の祟りではないか」と思われる事象が起きているそうです。

関東大震災の後、大蔵省が首塚の上に仮庁舎を建てようとしたところ、役人14人が怪死。太平洋戦争後、アメリカ軍が首塚を撤去しようとしたが多くの負傷者を出しました。